先覚者の足跡


 群馬県における最初のレスラーとしては宮崎米一を挙げねばならない。同氏は明治41年8月8日、安中市に生れ早稲田大学に進学し日本レスリングの創始者八田一朗と行動を共にした。昭和7年・第10回オリンピック大会(アメリカ・ロサンゼルス)にグレコローマンスタイル、フェザー級の選手として出場、活躍した。しかし、残念なことに、当時レスリングは余りにも一般的でないスポーツであったため、同氏の功績を讃え、またその偉業を継ぐ者もなく、国際情勢の悪化と共に消え去った。

 次に館林市出身の正田文男を挙げるべきであろう。彼は昭和17年旧館林中学より早稲田大学に進学すると同時にレスリングのスポーツとしての価値を高く評価し、勉学の傍ら練習に励んだ。折からの第二次世界大戦の渦中、外来のスポーツとして圧迫、食糧難、住宅難等の困難な環境下にあって、一貫として斯道の維持に努めた。終戦前後は早稲田大学レスリング部の主将として、昭和21年戦後再会された全日本選手権大会において第3位、昭和22年学業を終えて、郷里館林に帰り、家業に就きつつ後進の指導及びレスリングの普及に尽力した。


 協会の設立創立


 昭和23年前述の正田文男及び後輩てあった柔道の強豪野木村浩(日本体育大学OB)、宇佐美茂(拓殖大学OB)の協力により、ここに日本レスリング協会の下部組織として、群馬県レスリング協会が設立された。終戦後の混沌たる時期において、この地方協会の設立は全国でも極めて稀で、斯道の注目を集めた。設立に多大なる御支援を頂いた方々を列挙すると、

篠原秀吉・正田夘平・畔上道雄・正田文男・野木村浩・宇佐美茂・久保田利道である。


 高校への普及


 前述の正田氏、野木村氏、宇佐美氏が中心となり、昭和24年母校に先ずレスリング部を創設した。当初はマットもなく柔道部の破れ畳にトラックのシートを被せ、身体中擦り傷だらけになりながら練習をしたのも懐かしい思い出である。その後、レスリングの体育的評価の再認識、館林高校の公式試合における実績、また関係者の熱心な努力が実り、昭和31年に甘楽農業高校(現:富岡実業高校)に原田、小林教諭の力添えによりレスリング部が生まれ、昭和33年には関東学園高校に鈴木教諭の尽力で部が誕生した。